![]() |
「愛語というは衆生(しゅじょう)見るにまず慈愛の心を起こし顧愛(こあい)の言語(ごんご)を施すなり、慈念衆生猶如赤子(じねんしゅじょうゆうにょしゃくし)の懐いを貯えて言語するは愛語なり、徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし、怨敵を降伏し君主を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面いて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす、面かわずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語能く廻天の力あることを学すべきなり」『修証義第22節』 これは『修証義』というお経の中に出てくる一説であります。「愛語というは、衆生を見るにまず慈愛の心を起こし顧愛の言語を施すなり」。どういう事かといいますと、衆生つまり私達、みなさんのことです。皆さんが他の人に、まず慈愛の、慈悲の慈しみの気持ちを持って、相手に愛しむ言葉を施しなさいと書いてあります。 衆生というのは、たとえばサボテンがあります。サボテンでこの間実験された方があったんですが、サボテンが二つありまして、一つのサボテンに向かって毎朝声をかけるんです。 「おはよう。今日は寒いな、そろそろコタツを出さないとな」 とか言うんですね。で、こっちのサボテンは無視するんです。それを一年間繰り返したというんです。そしたらこっちのサボテンのほうが良い花をつけたんだそうです。植物にも心があるんだそうですね。 例えばメロン栽培にモーツアルト聞かせるといいとかね、おそらく植物にも心があるんだろうというんです。そこで、なんでその植物が和顔愛語で花をつけるのに、なんで人間にその言葉が言えないの、ということなんですね。 |
![]() |
このページを閉じる |